思ったことを認(したた)めるブログ

日々暮らす中で思った、ちらしの裏に書くようなことを書いていきます。

「新しい生活様式」実践例に思うこと

大方の予想通り、非常事態宣言が延長されることになりましたね。それ自体はある程度予測できていたことですし、実際今の状況で非常事態宣言が解除されるのもどうかとは思うので、私個人としてはやむを得ないかなと思います。もちろん、経済に対する手当ては何かしら必要ですし、このままずーっと自粛、というのも無理ということはわかっているはず(ですよね???)なので、その折り合いをどうつけるのか、というのをしっかりと指針を出して欲しいとは思います。

さて、最近は自粛厨+正義を掲げた自警団とか、この状況でバーベキューとかする過度なバカにイライラしたりする毎日なのですが、今日の話題はそれではなく、政府の専門家会議が出した、意味不明な「新しい生活様式」なるものについてです。
※ちなみに今回の記事は以前のエンゲル係数に関する記事とかなり内容が重複します。

mainichi.jp

いや、別に基本的な思想は全く間違っていないし、というか素人の私にケチなんてつけられる筋合いは全くないと思うのですが、なんというか、この方々は「衛生」について最適化を考えておられるだけで、全体を見れてないのでは、と疑問に思うことがあったので。もっとも、この全体最適の話はどこでもあることだと思います。

「料理に集中、おしゃべりは控えめに」、ハア?

ずばり、この記事を読んで思ったのは「料理に集中、おしゃべりは控えめに」の部分です。前述の通り、衛生の専門家の方々が考えた原則に従って考えれば、なんら問題のない、全くもって正当な提言だと思います。
でも、いったん食事の目的についてもう一度考えてみましょう。皆さんはなんで食事をするのでしょうか。生理的に考えれば、「食べないと生きられないから」が正解かもしれません。でも、本当にそれだけが食事の目的でしょうか。きっと周りの方に聞いてみれば、「美味しいものを食べるのが好きだから」という方もおられると思います。つまり、「食べること=生きるための手段」というだけではなく、「食べること=楽しみ」と捉えているということです。こんな人、いくらでもいますよね?ただ、この「食=楽しみ」と捉えている人にはあながちこのメッセージは間違っていないと思います。食事自体が楽しみなのですから、味覚を最大限に楽しむ、という意味でこのメッセージはあながち間違いでもないからです(そういえば、視覚で楽しむというのもありますね)。
では、何が問題なのか。それは「食事=コミュニケーションツールのひとつ」と捉えている人にとって、「おしゃべりは控えめに」という言葉はすなわち食の目的の一つを失ってしまうことです。皆さんもしばらく会っていない友人の近況を聞くときには、ご飯に誘ったりカフェに誘ったりしませんか?あるいは、いいか悪いかは置いておいてお店選びが仕事の評価に繋がる、といったこともありませんか?この場合の職においてもっとも重要なのは、「栄養を摂ること」でも、「食を楽しむこと」でもなく、「相手とコミュニケーションを取ること」ではありませんか?こうなると、もはや食事の意味は無くなってしまい、飲食店の方々は商売上がったりになってしまいますし、消費者側も楽しみがひとつ減ってしまうこととも同義と言えるケースもあるのではないでしょうか。もっとも、それを解消する手段としてオンライン飲み会が流行しているわけですが。

人間が人間であり続けるに

アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言ったとか言わなかったとか。私は哲学を全く学んでいないのでその真意は分かりませんが、人間は人間との関わりの中を持つことで人間たりえるのではないか、と考えています。互助的な考えを持ってきたからこそ、人間の社会は発展してきたとも言えるかもしれません。この辺りはうまく自分の思考をブレイクダウンできておらず、うまく言語化できていなくて申し訳ありません…
今の過度な自粛ムードや接触を避ける風潮に対してフラストレーションが溜まってきているのは、人間として全くもって自然な反応だと私は思っています。インフルエンザもそうですが、きっとコロナウイルスを完全に排除するなんてことは不可能だと思います。そんな中で、どうやって「アフターコロナ」ではなく、「ウィズコロナ」で生活を続けていくのか、そういった視点でもっと考えを巡らせる必要があるのではないでしょうか。
もちろん人が亡くなることは残念なことですし、患者の方々を見殺しにするという話では全くありません。ただ、この問題に限らず、環境問題なんかでも思うことは、ヒトは地球上に数多く生息する生物の一種に過ぎないのに、何をそんなに驕り高ぶる必要があるのか、ということです。コロナウイルス自然淘汰の一種でしかなく、それを完全にコントロールできるというのは人間のおごりなのではないか、と感じます。そういった外的要因を完全にコントロールするなんていうのは不可能なので、人間が人間たる「コミュニケーション」という部分を大事にしたまま、どうやってコントロールできない外的要因と付き合っていくのかを考えていきませんか。

 

いつものことですが、今回も思考が散乱していてまとまりのない文章になってしまいました。。。まぁ、こうやって吐き出すことで自分の思考を残して置きつつ、整理しつつ、というのが最大の目的なのでよしとしましょう。とりあえず今日はここまで。

余談:政府の会議体は信用できない(自説)

これは完全に余談なのですが、そもそも政府の会議体の類は個人的に全く信用していません。これはデータの信用性、とかそういったことではなく、今回の件のように得られた情報から出されるアウトプットの方向性が明らかにおかしいだろう、ということです。
というのも、だいぶ昔(平成12年7月7日)なのですが、教育改革国民会議第1分科会という場で、一人一人が取り組む人間性教育の具体策が検討された内容がなかなかに衝撃的でして、それ以来信用できないなと思っています。

www.kantei.go.jp

 

偉い人たちが真面目に議論しているはずなのに、「人間性教育」のための方策が

  • 遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の「我慢の教育」をする
  • 学校に畳の部屋を作る
  • 簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする

とか出てきているわけです。全くもって謎。ちなみに、そのほかにも家庭がやるべきこととして

  • 「しつけ3原則」の提唱・実施
     甘えるな
     他人に迷惑をかけるな 生かされて生きることを自覚せよ
  • 団地、マンション等に「床の間」を作る
  • 子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう

なんていう文字も並んでいます。個人的に畳と床の間が一番のツッコミどころと思っていますが、「飼い馴らす」というかなりやばめな文言がさらっと出てきても何も問題がなかったこともかなりポイントが高いです。

このことを知ったのは5年前くらいで、会議体自体がかなり前なので「時代錯誤なだけだろ」と思っていましたが、今回の件でなんら変わっていないのだな、、、とがっかりしました。終わり。

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