思ったことを認(したた)めるブログ

日々暮らす中で思った、ちらしの裏に書くようなことを書いていきます。

「モノ」でなく、「心」が大事な世界 〜有名人の自殺から感じること〜

一つの事象に特定した話でもないので特定の名前を出す必要もないかと思いますが、有名人の方が自分で命を断つということを最近目にする機会がありましたね。そのことで友人と意見を交わした時に、新たな気づきを得たのでメモにしておきます。
具体的には、標記の通り、お金や資産、そこに名声なんかも加えてもいいですが、「モノ」よりも、自分自身がそれをどう感じるのか、という「心」が大事な世界であるということを改めて認識させられました。

お金があってイケメンでも死ぬ必要あるのか?

1つのケースはネット(何でもかんでもネットのせいにすんなと思いますが)をはじめとした誹謗中傷が原因ではないかと言われ、なんともやりきれない話でした。
もう1つのケースはそこまでアンチがどうの、誹謗中傷がどうのといった話はあまり聞きません。むしろアンチが少なく、とても真面目に仕事に取り組んでおられたというイメージが先行していると思います。その上、イケメンですし(これがあまり好きでなかったという話もありますが)、俳優としても非常にご活躍されていたので、きっとお金、資産もたくさん持っていらっしゃったのではないかと思っています。

そんな情報を持った上で友人とこの件について話していた時に、「あんなにイケメンでお金があって、なぜ人生に絶望する必要があったのか。あれだけお金を持っていれば数年仕事やっていなくても普通に暮らしていけるんじゃねえか。死ぬこたねぇだろ。」という意見を伝えてくれました。そういう意見を持つことは何も悪くないと思いますが、決してそれだけではないとどこかで感じていました。

人生どう感じるかの最終決定は自分

友人の指摘は何もおかしくないと思います。実際、自殺の要因として「お金がない」というのはそれなりの割合を占めていると思いますし、モテなくて自暴自棄になる、仕事がうまくいかずに辛くなるというのはよくある?ことだと思います。言い換えると、金、顔、名声というものは紛れもなく人生を構成する要因の一つといえるでしょう。
それでは、それらを手にすれば幸せになるのでしょうか?私は違うと思います。過去の記事でも書いたような気がしますが、年収なんかは特にどこまでいっても上には上がいて、日本だけでも1億人以上いる中で年収マウントを取れるのは1人だけです。マウントを取れたとしても、次は自分が追われる側に移るわけですね。結局、例えば金を基準に人生を考えたところで、そんな息苦しい人生を送ることが果たして精神衛生上良いことなんでしょうか。似た意味で、芸能界という厳しい競争の世界に身をおく、ということは精神をすり減らしながら命を燃やしているということになるのではないでしょうか。

尊厳死論争も「心」の問題?

ちょうど同時期に、これまた命に関するニュースが流れましたね。ALS患者の尊厳死
1人の命が無くなってしまったということは無条件に悲しいことで残念な話ですが、亡くなった方の意思と、それに加担することになった容疑者の方の想いもよく理解しなければこの問題はうまく咀嚼できないのではないかと思います。
私自身は幸運なことに健康体そのものでこれまで生きてこられていますが、もし自分の体が動かなくなった場合、もう少し条件を限定すると「自分で自分の生計をたてられなくなった、たてられる見込みがなくなった時」には私も尊厳死を選ぶかも知れないと思っています。「痛くて痛くて辛い」という安楽死もありますが、私は国や周りのみんなに負担をお願いしてでも生きていくということが申し訳なすぎて、辛くなってしまうと思うのです(常々人は迷惑をかけて、かけられる関係だとも思っていますが)。結局、自分がどの程度動けるのか、どの程度経済に寄与できるのかといった質的な話ではなく、心が自分の行動を決めるわけであり、その心の軸を置く場所は人によって異なるので、「他の人の行動」を「自分の心」で解釈したつもりになってはいけない、と思います。

脱線:「生きる権利」と「死ぬ権利」

話が脱線しますが、「死ぬ権利」と同時に「そもそも『生きる権利』を保証すべき」という意見も出ていましたね。しかし、その範疇はかなり曖昧ではないか、と少し思います。具体的には、基本的人権で認められている「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は生活保護で認められているのではないか、ということです(不正受給問題や、本当に必要としている人に渡っていない、という議論もありますが)。しかし、ここでいう「生きる権利」というのは、この権利に比べて「贅沢」なお願いではないか、とちょっと思うんですよね。生活保護の世帯がお刺身買ってる写真なんかもネットで出回っていますが、刺身をスーパーで買えない(買わない)ワーキングプアなんていくらでもいると思いますしね。
また、「死ぬ権利」についても個人的には認めても良いのではないかと思っていますが、決して簡単に認めるべきではないかもしれないな、と最近感じています。前述の私の考えに同意される方もされないかともいると思いますが、そこに強要が発生してしまうと非常に危険である、ということです。私は「人様に迷惑かけながら生きるなんて…」と思いますが、その考え方を他の人に強要するとなると、「あいつは世間の役に立ってないくせに何生きてんだ、さっさと尊厳死を選べよ」となってしまうわけです。これこそ、「生きる権利」を奪っていることに他ならないのではないでしょうか。加えて、日本は非常に同調圧力が強い国であることを「コロナの自粛警察」で皆さんよく理解しておられるのではないでしょうか(東日本大震災の時の過剰な自粛なんかもそうですね)。

 

ということで、人の幸せは「モノ」ではなく「心」で決まる、ということを書きたくて描き始めた記事でしたが、書き終わってみると「命」を扱う問題の難しさに振り回されていまいましたね。次回はもうちょっと明るい話を書きたいです(希望的観測)

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